大きな気づき_”はいべん”を点数化する小学校教育に思うこと
夫が教えていた若者が、昨日オーストラリアへ飛び立った。
自分が同じように、オーストラリアで生活をはじめたときのことが自然と思い出される。
私は、飛行機の中で喜びの涙が止まらなかった… 「ようやく自由になった!」
大学進学=「いい子」、国公立=「いい子」、就活=みんな同じ格好=「いい子」、弱音をはくな、時間通りに、迷惑かけるな、自分でやれ、自己責任…
日本の価値観に押しつぶされかけていた。
しばらくは”逃げ出した”ような気もしていた。
卑怯者、弱虫…そんな風に自分を見ていた。
でも、たくさんの「自分の幸せのためにいきる」から「他人の幸せも尊重する」人たちが住む国で生活して、考え方は変わった。
「自分の幸せのためにいきる」から「他人の幸せも尊重する」社会は、外国人の私にとっては自由な居場所だった。(もちろん、近年のオーストラリアが親日であることの影響は大きいし、運よく仕事もあり生活が成り立っていたということはある。オーストラリアも”天国”ではない)
…
長女が小学校に入学した。
日本らしく班で登校していく。保育園の時は、一緒に保育園に通う妹や弟に手がかかり、なかなか早く登園ということができなかったが、一人で家をでるので、毎朝時間通りに元気に「行ってらっしゃい」と見送ることができていて、気持ちがよかった。
そんななか、チャートが配れた。
こどもの就寝時間、起床時間、食事の内容、家での学習時間、排便のタイミング、メディアの時間に、点数付けをするというチャート。
それだけじゃない、そのちょっと前には、同じような内容で「早く寝たか」「早く起きたか」「ご飯をたべたか」「うんちはしたか」「あいさつをしたか」「顔を洗ったか」「歯磨きをしたか」というチャートが配られている。
長女は、「毎日の行動をチェックするリスト」を2つも与えられている。
そして、まだまだひらがなを習っている1年なので、それぞれの色塗りをさせたり、点をつけたりという親の作業が増えた。
ここから、私が毎日怒鳴る、怒るようになる。(気に食わないことがあると癇癪なんて、2歳児だ。最近、自分のエゴがとげとげしている)
ココロにひっかかることはたくさんあった。まずは、チェックしないといけない内容のこと。ひとつのチャートは、「はやね」「はやおき」をしましょう。というものだった。「その時間はどうやって決めればいいんだろう?」と、お母さん(私)はそこから目に進めない。
「はやね」ということは、「いつもよりはやく寝る」ということなのか…?などど、いろいろ考えてしまう。
もっとわかりやすくしてくれたらいいのに…と思っていたら、もう一つのチャートがきた。「2つも同じこと(子どもの生活の評価)をしないといけないのか!」と、またイライラ度が増す。ただ、そちらには「1年生は9時までに寝て6時半に起きましょう」と書いてあった。まだわかりやすい。
家でも同じ時間でやっているし...でも、だれかに「プライベートな家のことをわざわざ伝えて、チェックされる」ということに対する違和感が残る。
幼児ならわかる。保育園では、過ごす時間も長いしこどもの健康管理に、寝た時間や食べたもの排便の有無を聞かれるのは納得している。
でも、小学生?教育機関だよ。そして、チャートの提出は限られた期間、ということは通常の学校生活を送るうえで必要なものではないということだ。
どうしてもわからない。
「あさのはいべん」のチェック???
親だから、うちの長女がうんちは学校でしている(朝はしない)ことは知っている。
ってことは、うちの長女のチャートは、ひとつもチェックがつけられない。
まだ、あいうえおを書く練習をしている、幼児に毛が生えたような娘だ。大人が勝手位に「朝うんちすべき」といってチャートを押し付けるべきだろうか?
チェックリストには「あいさつしましょう」「かおを洗いましょう」と努力すればできる内容があるなかで、彼女の「”朝の”はいべん」はそれと同レベルとは思えない。
「朝うんちしたくならなかった」ということで褒美がもらえないとき、どんな気持ちがするだろう。あなたが親ならどう思う???
私は、うちの子はロボットじゃないと感じた。
学校でうんちができないために病気になることが社会問題になっている時代で、学校ででも我慢せず必要な時にうんちができていたらいいじゃないか???
よくよく振り返ると、 私もそういった「朝すべき」論を押し付けられて育ったような気がする。なぜなら、忙しくて「朝したいのに時間がない」ときに、非常に後ろめたい気分がするのだ。「あー、朝できてたらよかったのに…」と。
それ以外の時間で忙しくて排便できなかったら、「あ、次回はちょっと便秘気味になりそうだな」とかちょっと憂鬱になるだけなのだが、朝の便となると「しなくては」ってプレッシャーがときどき顔を出す。
「朝うんちした」ならチェックしてよい。「朝うんちしなかった」らチェックできない…。こどもはそれで、どんな不必要なプレッシャーを学ぶのだろうか。
さらに、一つココロにひっかかって消化できないことがある。
それは、できたら2点、条件付きでできたら1点、できなかったら0点。という点数での評価システムだった。
なんのためにうちのこどもの生活(寝る、起きる、食べたもの、排便、メディア、家庭学習)を点数化した結果が必要なのか?
調査に使うのか?
チャートについてきたA4の通知には、「子どもの豊かな生活のためにご協力してください。」と書いてあった。
よくつながりがわからない。もっと説明してほしい。担任の先生が使うだけなのか???
どうして「学校で配られたから」というだけの理由で、こどもの「日々の生活記録」を「評価」して、他人様に名前付きで渡さないといけないのか???
とりあえず、先生に連絡帳で尋ねた。
「これはしなくてはいけないのですか」と。
だって、しなくていいなら、気にしなくてよい。
チャート記入をする理由が返事として返ってきた。これはチャート配布時に、当然すべき説明だ。「全国的に不規則な生活の家庭が増えていることを問題視し、よりよい生活習慣を啓もうするため」と返ってきた。
しかし、「しなくてはいけないのですか」には答えてもらえなかった。
聞いたことに答えないどこかの国の政治家たちのようだ。
やる理由の中には、「朝の排便についても医学的に健康に優位なのだ」と書いてあった。
いつの医学だろう?
「こどものころに習慣をつけると、大人になって助かる」的なことも書いてあった。
そうだね、こどものころお陰かどうか、私は早く寝ていたし、朝排便もしていた気がする。しかし、今にはつながっていない。
今は大人だけど、朝必ずしも排便はしてない。でも、元気だ。自分の体のことは自分でわかる。医学的にも、排便のパターンには個人差があるというのが今の通説ではなかろうか。自分の体を良く知って、違和感が生じたときに専門家にいくという力をつける方が大事ではないか?(朝うんちしなかったら減点という間違った圧をかけたやり方ではなく)
そもそも、「啓もう」が目的なら、なぜ評価をするのか?なぜ、学校がうちの子のプライバシーを覗くことをするのが「当然」のようにされるのか?
実は、こういった懸念は私のわがままだけの話ではないと思う。これから、日本は外国人家族が当たり前のように学校で日本人の子どもと学ぶようになる。文化の違う家族たちは、当然「理解できないこと」は理由を求める。それに学校サイドが丁寧に答えることができなければ、それ以降その家庭から協力はしてもらえるだろうか?学校と家庭に、信頼関係がなければ、だれが不幸になるか。「こどもたち」である。
今の学校は、日本の学力低下で焦っている。
だから、宿題もそう、こんどの学力調査の目標もそう。親に手伝いを求める。その目標は「満点をとりましょう」
満点をとらなかったらどうだとうのだ?満点である必要はなぜあるのか?
そんなイライラを抱える新小学生の母親な私である。
なぜ私はイライラするのか…
なぜそのイライラをこどもにぶちまけるのか…
そんなことも考える。
「満点」、つまり完璧。
それを求められることにいら立ちを感じている、私。
そして、結局、わたしは【完璧にできない長女】にそのいら立ちを押し付けた。
「なんで、時間通りに動けないの!?」
「もう朝ごはん食べ終わってる時間でしょ!?」
悲しそうな顔の娘。
でも、イライラが収まらない私。
いつもは、笑顔でいってらっしゃいと見送るのに、
「もう知らない!」って言い放った。
(みなさん、これが家庭の現実です)
え、間違ってるよ、私!!!完璧の押し付けがいやなのに、子どもにそれを押し付けてるよ!!!
完璧であれないことに、私はいらだった。
なぜか…
自分も大泣きしながら考えた。
なんで…??
そして、気づく。
それは、私が完璧を求められた教育システムのなかで育てられたからだ。
常にテストは100点。
成績はいつも1位。
そうでないといけない。
そうできるんだから。
プレッシャーの12年間。しかも、テストの成績以外は何にも持ってない特技もない小さなオタク少女。(成人してからすっかり二次世界への興味は全くなくなった)
システムにどっぷりつかっていた思春期時代の顔は、
自分でもわからないままニキビだらけだった。
思春期だから、ニキビは当然なのだけど、
私はストレスでいつも自分の顔をひっかいていたから
ニキビは永遠に治らなかった。
治ったのは、高校卒業してから。
大学に出て、100点じゃなくてもいい世界にいったときに、ストレスは減り、顔をひっかくこともなくなった。(反動で遊びまわった。大学でこれまた何にも身につけてない。)
完璧=良しの世界で育った私。
だから、
自分で「完璧でなくていいよ」といいながら、こどもが完璧でないことにいらだったのだ。
だって、「満点とらなきゃいけないでしょ?間違っては、ダメなんでしょ?」そんなプレッシャーが心の中に染みついている。それが、わたし。
だから、私が変わらなくては。
わたしが変わって、「0点でもいいよ」ってこどもに言えたらいいのだ。
それに気づいたとき、涙が出た。
パートナーが、もともと点数から自由な人で良かった。
今日も、「~ねばならない」の押し付けをする私がひとりで爆発している間、
夫が子どもの対応をしてくれていた。私が、この日本教育・日本社会の呪縛にとらわれている間、支えてくれる大切な存在です。
ねえ、先生。
わたしのうんちスコアは0点ですが、なにか???
それで私は、「あなたたちの理想とする日本人像」ではないでしょうが、それでなにか???
ああ、そういう意識を身につけてほしいと、啓発のためにやってるっていうんですね。
だったら、そもそも記名してチャートに書かせて提出が当たり前なはずないですよね?
私たちは子どもが健康かどうか、ちゃんと日々学んでいるかどうかくらいちゃんと見ています。それは子どもたちの心からの笑顔率でわかります。
あなたたちは、教育機関ではないですか?私たちが、日々トイレに行ったどうかは教育とどんな関係があるのですか。どうしてそれに成績をつけないといけないのですか?
こんなこと、わざわざ言わないと「こどもたちにとって、親たちにとっていいことをしている私たち素晴らしい」という誤解をしちゃうんですよね。
そんなことより、真面目に英語なり、プログラミングなり、アクティブラーニングなり、新しい科目や教え方をマスターして、よい教育を施してください。